自分を生かす道を必死に探して辿り着いたメダル獲得。

「 凜とした人 」は、さまざまな分野で活躍する女性に、自身の生き方や価値観、美意識などについてお話を伺うインタビューシリーズ。第2回目は、オリンピックメダリストで現在は認定NPO法人「ハート・オブ・ゴールド」代表理事、スペシャルオリンピックス日本理事長として、スポーツの力で社会に貢献する活動にも精力的に取組んでいる有森裕子さんに登場いただきます。

1992年バルセロナで銀、1996年アトランタで銅と、2大会連続でメダルを獲得した有森さん。トップアスリートに至るまでの道のり、そしてメダリストとしての栄光と葛藤について伺いました。

——どんな子供でしたか?

自分に自信のない子でしたね。落ち着きがなくて、転んで怪我をしたりもしょっちゅう。もともと両足股関節脱臼で生まれたこともあり、母はいつもハラハラしていたと思います。小学校では手芸クラブ。実は私が好きだったのはスポーツよりも美術や手芸などのものづくり。刺繍も得意でした。そういう、ものを作りあげていく過程が好きだったのです。

でも、そういうものって評価基準が明快ではないんですよね。自分の自信につながるものを探していた当時の私にとって、努力した結果がはっきり出るものが必要だった。周りと比べて自分はこれが秀でていると確信が持てるものを求めていました。

——それが、陸上だったというわけですね。

それがわかったのは中学校の運動会の時です。800メートル走という種目があって、不人気で誰もやりたがらない。私は自分が得意かどうかもわからないまま、これなら自分も走らせてもらえるだろうと考えて、手をあげました。もともと不器用でできることが少ない中で、みんなが目を向けないことにしかチャンスの空きがなかったのです。走ってみたら、1年生で校内優勝して、その後3年間、卒業するまで優勝し続けました。このことで「あ、私はこれができるんだ!」と明確に思うことができた。

走ることが好きだったわけではありません。一生懸命打ち込んで、その結果が明確に出て、それを評価してもらえる、そんな対象が欲しかったのだと思います。楽しさなんて端から求めていませんでした。

——その道は2大会連続のオリンピックメダルまで続いていたわけですが、決して平坦ではなかった。小出義雄監督率いる実業団チームに入った時も、半ば押しかける形だったとか。閉じかけたドアをこじ開けるようにしてまで自ら信じた道を行く、その原動力とは?

自分の持っているものを最大限に生かして、生きていきたいという想いだと思います。その道を私は当時必死に探っていました。今自分に何ができるか、今何をしなければいけないのか、それだけでした。走る喜びがあるからやれる、というようなことではなくて、今日がんばらないと明日がない。明日もがんばったら、また次の日がある。そんな風に日々を必死に生きていました。大きな目標を持って過ごしていたわけではありません。直近の大会に向かって全力を尽くす。その大会で上位に入って新聞に名前が載れば嬉しい。そういう感覚でした。

——最初からオリンピックを目標にしていたわけではないのですね。

母に言われたのは、眉ぐらいの高さの目標を持ちなさい、と。手の届かないところにある高すぎる目標より、届くか届かないかのところにある目標を持って、常にそれを追いかけながら継続していくことが大事だと。そういう努力の方が私に合ってるとわかっていたのでしょうね。実際母の言う通りで、あまりに遠くて見えないものを追うよりも、見えているものに向かって努力する方が性に合っていたようです。

練習でもまさにそうで、例えば目標タイムを課されると私はダメなのです。「できない」って思ってしまう。監督もそれをわかっていて「とにかくタイムは気にするな。何時間かかってもいいからやり切れ」と言う。そう言われると私はやるんですよ。どの方向なら私の持っているものをがんばりに向けていけるかっていうことを、周りの人が理解して導いていってくれたのだろうなと思いますね。

根本は今も変わらないのですが、私はみんなと同じ方法でがんばれないのです。みんなが当たり前にやっていることがどうも自分にしっくりこなくて、いきなりできなくなってしまう。自分だけの方法を見つけるまでがすごく大変でした。

——自分に合ったやり方を見つけられたのには、何かきっかけがあったのでしょうか。

小出監督と出会ったことでしょうね。その前からなんとなく、自分の特性みたいなものはわかっていたし、大学時代に部の練習時間外にコツコツと自主練習を積んで強くなっていく感覚は得ていましたが、監督と出会って、みんなと違う方法でいいんだと認めてもらって、それをやることで結果を出していけるようになったことだと思います。人より練習量が多くても、他の選手と全く違うことをさせられても苦ではない。自分のための練習ならいくらでも平気でやれる。そういう変な自信は当時からありました。

——2大会連続メダル獲得というのは、日本の陸上競技選手としては初の偉業でした。2度目に挑んだ心境は、やはり1度目とは違ったものだったのでしょうか。

まったく違う動機でした。バルセロナで最初のメダルをとった後に体験した世界は、それを夢見ていた時に描いた世界とはまったく違っていたのです。メダリストになれば漠然と何かが開けて、新しいことが始まるのではないかと思っていました。その結果を生かして自分のために人生を切り拓いていけると考えていたんです。

でも、蓋を開けてみたらまったくそうではなかった。オリンピックのメダリストって何なのだろうと思わされることが多々あって。私だけでなく周囲も含めこんなにみんなが一生懸命になってオリンピックを目指し、メダルをとろう、とらせようと注力し、期待もされるのに、その後の選手の生き方にはなんの変化も求めていない。ちょっと騒がれた後は元の場所に戻るか引退するか。私はそのことに対し、自分でも気づかないくらい大きなショックを受けていたのだと思います。

私は、選手の人生におけるオリンピックの位置付けは、ホップ、ステップ、ジャンプの中のステップでなくてはいけないと思うのですが、その時はジャンプし切った感じになっていたのです。輝かしいメダルとともに自分も輝くはずなのに、曇ってきているように思えてきた。1度目のバルセロナでは、ゴールしたら死んでもいい、というぐらいのつもりでやってきたけれども、本当は死んでは困るのです。終わったら今度は自分を生かすため、生きるために走るのだと気付くわけです。だから、2度目のアトランタは私が今一度生きるために走ろうと思いました。ゴールしたら死んでもいい、ではなくて、今度はゴールしたら生きたいんだって、そう変化したんです。

——次こそ未来を切り拓くためのメダルにしたい、と。

そう、そして同時に、そのことをみんなにも気づいて欲しかった。オリンピックが終わってもアスリートの人生は続くし、オリンピックまでの時間をその後の時間へとつなげなければいけないのだと。そんな私の言葉を世間に聞いてもらう手段として、もう一度オリンピックに出てメダルをとらなければならないと思いました。そうしなければ、この想いは届かないし、誰も考えてもくれないだろうと思って。だから、アトランタは出たい!ではなくて出なければいけない、という気持ちでした。

【後編に続く……】

Profile: 有森裕子 (元マラソンランナー)

1966年岡山県生まれ。バルセロナオリンピック、アトランタオリンピックの女子マラソンで銀メダル、銅メダルを獲得。アトランタでのゴール直後の言葉「自分で自分をほめたい」はその年の流行語大賞にも選ばれている。代表理事を務める認定NPO法人「ハート・オブ・ゴールド」は、カンボジアで人材育成に取り組み今年22年目を迎える。また、知的障害のある人に様々なスポーツプログラムを提供する国際的なスポーツ組織「スペシャルオリンピックス日本」の理事長を務めるなど、スポーツを通した社会貢献活動を精力的に続けている。2010年には国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞している。

取材・文:東海林美佳
撮影:福井 馨
ヘア&メイク:遠藤芹菜
スタイリング:酒井美方子
衣装協力(ブラウス):キーコ(フクリエ)TEL 055-919-4254