人に社会に変化をもたらすスポーツの力を信じて。

「 凜とした人 」は、さまざまな分野で活躍する女性に、自身の生き方や価値観、美意識などについてお話を伺うインタビューシリーズ。第2回目は、オリンピックメダリストで現在は認定NPO法人「ハート・オブ・ゴールド」代表理事、スペシャルオリンピックス日本理事長として、スポーツの力で社会に貢献する活動にも精力的に取組んでいる有森裕子さんに登場いただきます。

前編に続いての後編では、スポーツ界に一石を投じた「プロ宣言」、人や社会に変化と成長をもたらすスポーツの可能性、そして延期が決まったオリンピックについての考えを伺いました。

——アトランタで2つめのメダルを獲得した後「プロ宣言」という、当時の陸上界では前例のない一歩を踏み出しました。軋轢や抵抗も厭わず新しい道を拓いたその想いとは?

今でもよく覚えているのですが、プロ宣言をした時、海外の友人に「当たり前のことをどうしてわざわざ宣言しなきゃいけないの?」と言われたんです。当時の日本では「プロ宣言」が衝撃的な響きをもって伝えられましたが、私は自分が得たものを最大限に生かして生きていきたいと思っていただけなのです。

一般の人たちと同じで、自分のできることを仕事とし、それでお金を稼いで生きていきたい、そういうシンプルな想いでした。私にとってその手法がマラソンなのに、なぜスポーツであるというだけでそこに制限がかかるのか。朝から晩まで走って、それを求められてもいて、それでお金をもらっているのに、それをプロと呼ばずになんと呼ぶのか。そこに矛盾があるだろうと。それが私の根本でした。

——アマチュアリズムが尊い、という考え方が当時はありましたね。

そう。スポーツは聖域、スポーツマンは聖人で、お金のことなど口にしてはいけない。メダル獲得は自分の力だけではないので、恩返しのつもりで奉仕すべき。こういうことが美徳とされていました。メディアでも随分騒がれましたけど、何よりそれまでのスポーツの歴史を作ってきた往年の方々や協会の方たちの批判が根強くあった。霞を食べて生きろというのか、と思ってしまいましたけどね。

スポーツで食べていくこと、スポーツを仕事にできることって、すごいことだと思うんですよ。スポーツの魅力を損なうことになど全くならないはずなんです。

——その後、後に続くアスリートは増え、スポーツの活性化とアスリートの生き方の多様化へとつながりました。もの言うアスリートの第一世代として、道を作った功績は大きいと思います。

当時は後世の選手のために、という意識はなかったですけどね。ただただ、自分の納得いくように人生を進みたいという想いでした。正しいか正しくないかが自分にとっての納得のライン。そこで納得できないと、まず自分の考えをぶつけたいと思ってしまうんです。納得いかないまま動くことほど自分にとって嫌なことはないので。「今までそうだった」「みんなそうやってきた」と言われても「ハイ、わかりました」とは言えない。そもそも自分は人と違うことをしたいという想いがあるので。

不器用だから人とぶつかってしまうし、迷惑をかけることもありました。ただありがたかったのは、共に戦ってくれる人がいたことですね。両親もそうですし、当時の所属会社のスタッフもそう。そういう同志がいたから戦えたのだと思います。

——2つのオリンピックはもちろんだと思いますが、他に印象に残っているレースは?

日本記録を出した1991年大阪国際女子マラソン、怪我から復帰してアトランタ出場の決め手となった1995年の北海道マラソン、それとプロ宣言後初レースとなった1999年のボストンマラソン。どれも、失敗していたら今の自分はない、というレースで印象深いです。ボストンは特に、背水の陣で臨んで3位に入り賞金を手にしたレースで、世界基準のプロランナーにやっとなれた、と思いました。

——引退は2007年ですが、1998年には認定NPO法人ハート・オブ・ゴールドを立ち上げています。今年で22年目ですね。

これは、ある方に誘われて1996年に「アンコールワット国際ハーフマラソン」というカンボジアのチャリティレースを走ったことがきっかけです。誘ってくださった方は私がアトランタ後に引退するだろうと思っていたみたいで(笑)。現役を続けながらも引き受けた理由は、スポーツの持つ意義、そしてその価値を確認できると思えたから。私自身がスポーツによって生きてこられたという事実がありますから。困難な状況にある子ども達や障がい者のスポーツによる支援や、自立を促すための人材育成に取り組んでいます。スポーツを通して自分の人生が変化してきたように、カンボジアの人や町や社会の成長へのきっかけになれればと思ったのです。

実際やっているとその変化を感じられる瞬間が多々あって、それが大きな喜びです。スポーツでこんなことが実現できるんだ、という実感が得られる嬉しさがあります。「アンコールワット国際ハーフマラソン」は、当初645人の参加者で始まりましたが、現在では85カ国、1万2000人以上が集まる世界的な大会へと成長しました。2013年大会を機に運営をすべて現地に移譲し自立を達成しましたが、今も大会名誉会長として毎年参加しています。

——理事長を務めるスペシャルオリンピックス日本の活動についても教えてください。

これも、きっかけは当時の理事長、細川佳代子さんに声をかけていただいたことからです。この団体が「知的に障がいのある人たちにスポーツの場を提供している」と聞いて、「え?」と思ってしまったのが、この活動に取り組む動機となりました。私は、スポーツの場は人間にとってはあたりまえにあるものだと思っていたので、それをわざわざ提供しなければスポーツに取り組めない人がいるということに驚きとショックを覚えたのです。

私がスポーツを通して変化し成長できたように、誰でもスポーツで変化していける社会であるべきだと思いました。スポーツには人間を動かし変化を起こす要素がある。それを誰からも奪う理由などないはずです。障がいの有無に関わらず、誰もがスポーツをあたりまえにできる世界に、今なっていないのだとしたらそうしないといけない。それがきっかけです。だから、究極はこの組織が必要なくなるというのが理想。その日が来るまで活動を続けていきたいと思ってやっています。

2019年に実施した「スペシャルオリンピックス2020北海道」の採火式にて。© Special Olympics Nippon

スペシャルオリンピックスは、オリンピックやパラリンピックが昨今、表現成し切れていない、スポーツの基本的な社会への価値を表現できる存在だと思っているんです。スポーツの本当の意義とは何かということを、この活動を通して伝えられる可能性を持っている。例えば知的障がいのない人とある人でチームを組んで行うユニファイド形式を取り入れた競技・種目があるのですが、これによって社会と同じ構図をつくり、スポーツを通して共に生きていけるのだということの気付きを生み、見せることができると思っています。

オリンピック憲章には、オリンピックは「選手間の競争であり、国家間の競争ではない」 と明記されています。スペシャルオリンピックスでは設立当時から国旗掲揚は、基本的には行っていません。今この状況下で、オリンピックの価値やあり方を改めて見直すべきではないか、というような話が出てきています。オリンピックは国同士で競い合うチャンピオンシップではなく、スポーツの祭典、平和の祭典であるという本来の姿に立ち返るべきだと私は思います。規模はどうあれ、これをやる本当の意味は何なのかを、今一度考えるいいタイミングに来ているのではないでしょうか。

Profile: 有森裕子(元マラソンランナー)

1966年岡山県生まれ。バルセロナオリンピック、アトランタオリンピックの女子マラソンで銀メダル、銅メダルを獲得。アトランタでのゴール直後の言葉「自分で自分をほめたい」はその年の流行語大賞にも選ばれている。代表理事を務める認定NPO法人「ハート・オブ・ゴールド」は、カンボジアで人材育成に取り組み今年で22年目を迎える。また、知的障がいのある人に様々なスポーツプログラムを提供する国際的なスポーツ組織「スペシャルオリンピックス日本」の理事長を務めるなど、スポーツを通した社会貢献活動を精力的に続けている。2010年には国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞している。

取材・文:東海林美佳
撮影:福井 馨
ヘア&メイク:遠藤芹菜
スタイリング:酒井美方子
衣装協力(ブラウス):キーコ(フクリエ)TEL 055-919-4254