「私の物語」から人に届ける「希望の物語」へ。

「 凜とした人 」は、さまざまな分野で活躍する女性に、自身の生き方や価値観、美意識などについてお話を伺うインタビューシリーズ。第3回目は作家の角田光代さん。直木賞を受賞した『対岸の彼女』、ドラマ化、映画化され大ヒットとなった『八日目の蝉』や『紙の月』など、どこにでもありそうな日常から展開していく物語は、読み進めるうちにぐいぐいと引き込まれていく不思議な力を持っています。

前編では、そんな角田さんの作家としての原点と転機、そして“角田ワールド”が生まれる背景についてうかがいました。

——小学生の頃には既に小説家になろうと思っていたそうですね。

もともと本を読むのが好きで、小学校に入って文字を習って作文を書くようになったら書くこともすごい楽しいと思ったんですね。そんな時、将来何になりたいかを作文で書いてくるように言われて、パッと思いついたのが作家だったんです。 でもあまりにも小さい時に一途に作家を目指すって決めてしまったものですから、国語以外の科目をまったく勉強しなかったんです。今となっては本当に後悔しかないんですけど。他の科目もちゃんと勉強すべきだったと心底思います。

中学、高校の時は太宰治や谷崎潤一郎、梶井基次郎など、教科書に乗っているような作家ばかり読んでいました。大学では小説の書き方を習う学部に行ったんですけど、そこで出会った同級生たちの読書の幅の広さにカルチャーショックを受けました。自分はかなり読んでいたつもりだったけど、全然だった。恥ずかしかったですね。もっと読まないとだめじゃん!と思いました。

——当時、こういうものを書きたい、こんな作家になりたい、というようなイメージはあったんですか?

私が10代の終わりから20代だった頃は、まだ同世代の声を代弁してくれる小説がほとんどなかったんですね。小説というものはもっと大人の難しい世界、という感覚だった。ロックを聴く感じで読めるような、もっと身近なものとして同世代の人たちに読んでもらえる小説を書きたいと思っていました。

ただ30代になって、小説に対する考え方が変わったんです。20代の頃の、自分の世代に届くものを、という考え方だと世界がどんどん狭まってしまう。もっといろんな世代に届く物語性が必要だと。ストーリーを重視したものを書く方向へとシフトしたのがその頃でした。

——何かきっかけがあったのでしょうか。

30代半ばぐらいで壁にぶち当たって、これ以上面白い小説は書けない、みたいな感じになったんです。多分最初に考えていた、自分の世代を書きたいとか、自分の世代に届けたいという思いには限界があったのだと思います。それを乗り越えるためには書き方を変えざるを得なかった。

デビューしてからしばらくの間は、安易な希望といったようなものが信じられなかったんです。20代は先が見えない不安もあったし、人生がそんなに楽しいものだとは思えない、という感覚があって。その自分の実感を無視して「人生は素晴らしい」とは書けなくて、今いるこの不安なところで小説を終えるしかない、という書き方をずっとしていたんです。ある年長の編集者には「それはよくない、世の中に残っている小説はすべて希望を書いている」と言われていたのですが、何がよくないのかがわからなかった。

それが、壁を乗り越えようとしている時にようやくわかったんです。自分と自分の周りだけ見ていても明るい話は書けないのだと。なぜなら私自身が明るい未来なんて信じてないから。私の物語ではなくて、みんなに読んでもらう物語。人に渡す物語を書くべきなんだと思った時に、そのおじいちゃん編集者に言われたことが腑に落ちた。「希望を書く」ということがやっとわかった気がしました。「生きてたってつまらないよ」ではなくて、「苦しいけど絶対なにかあるよ」という見せ方をしないと小説が開いていかないんだと実感としてわかって、それをなんとか形にしようとして書いたのが『対岸の彼女』だったんです。これは、自分の中でのすごく大きな転換点でしたね。

——壁を乗り越えるのは苦しい体験でしたか?

変な話なんですけど、30代前半ぐらいに洋服を変えなきゃいけない時期が来るじゃないですか。20代の時に行っていた店に30代になっても相変わらず行ってたら、なんか店員さんがよそよそしいとか、店にいる周りの人がみんな自分より若いとか。ある日それに気づいて「あれ?私って変?」みたいな(笑)。

そういうことが32、3ぐらいの時にあって「洋服どうしよう!」ってなっていたんですが、小説の方も同時期に壁にぶつかっていて「小説どうしよう!文体どうしよう!希望って何?」みたいなことになっていたんです。私の中では洋服も小説ももう全部一緒くたで若い時の方法が通用しなくなってしまって、別のフェイズに行かなきゃいけないという時期だったのだと思います。

——そういう時期を経て、次のフェイズに移ってからは、苦しさみたいなものからは自由になっているのでしょうか。

小説に関して言うと、書き方を変えてからはだいぶ楽になりましたね。前みたいな行き詰まり感がなくなったし、ストーリーを重視しようと思えたことで世界が広くなったと思うんです。いろんなところから題材を探せるようになりました。

——ほとんどの小説は女性が主人公ですが、ご自身に重ねる部分などはあるのでしょうか。

あまり自分と重ねることはないです。書き方を変える前、 20代の頃は自分と似た立場の人、確たる仕事を持っていなくて、社会的な居場所がない人たちを書きたかった。でも30代の半ば以降は自分とまったく接点のない、私が普通に生きてたら会わないタイプの人を語り手にすることが多くなりました。小説の登場人物として考えるとき、「多くの人」のほうを描きたくなったんです。 物語を重視して書こうと思った時に、私に近い人間を中心に置くとすごくちっちゃい話になってしまう。それよりも、全然違う人間が見た世界を客観的に私が作った方が、多分物語として膨らむだろうと考えました。

――その普段「会わないタイプの人間」はどのようにして生まれてくるのですか?

私は就職したことがなく、ふだん接する人は私のような自由業か、自由業者と仕事をする人たちばかりで、考えや価値観がわりと偏っています。また、子どもも持っていないので、家庭を持つ人、学校など教育の場との接点も非常に少ない。でも多くの人は、会社の上下関係のなかで生きていたり、社会的な立場をわきまえなければならなかったり、父親・母親という立場でのかかわりのなかでの一面も持って暮らしています。社会に属し、家庭を持ち、多くのかかわりのなかで生きている人たち。その場合は、自分のよく知っている人たちを書くよりは、たくさん取材が必要になります。

「この規模の会社でこういう役割だと、どんな人間関係になるのか、どんな人と日常的に会うのか、仕事で何がつらくて何が理想なのか」あるいは「この年齢の子どもがいたら、どのようなことをしなくてはならないのか、学校とどのくらいかかわらなくてはならないのか、どんなことで悩むのか」等々、ふだんの暮らしで私がまったく考えなかったことを調べたり、取材したり、想像したりしなくてはならない。そのなかから、ふだんなら私が接することのない登場人物たちが生まれてきます。

――小説のテーマはどのように出てくるのですか?

テーマは、普通の暮らしの中から湧き上がってくる違和感みたいなものから見つけることが多いですね。 例えば『対岸の彼女』だったら、15年以上前ですけど、働く主婦と専業主婦のバトルみたいなものをよくテレビでやってたじゃないですか。あれを何回か見ているうちに「なにやってんの、この人たち」みたいなどうしようもない違和感が湧き上がってきて、「女の人ってどうしてこんなケンカをするの?同じぐらいそれぞれ大変なのになんで相手をけなさなきゃならないの?」って思ったんですね。その違和感から、「女性の友情って何?」というテーマが生まれて、それを書きたいと思った。じゃあどういう人を出せばよりテーマが浮き上がってくるかということを考えて、働く社長と元専業主婦、という構図にしたんです。

――小説を書く上で、これだけは譲れない、というようなものはありますか?

むずかしい言葉や表現を使わない。知らないことを知っているふうに書かない。自分が嘘だと思うことを、本当のように書かない。ということです。

【後編に続く……】

Profile: 角田光代(作家)

1967年神奈川県生れ。1990年『幸福な遊戯』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2005年『対岸の彼女』で直木賞、2007年『八日目の蝉』で中央公論文芸賞、2014年『私のなかの彼女』で河合隼雄物語賞を受賞するなど、文学界の数々の賞を受賞している。2020年2月に新訳『源氏物語』(上、中、下巻)を上梓。現在、読売新聞朝刊にて5年ぶりの長編小説『タラント』を連載中。

取材・文:東海林美佳
撮影:福井 馨
ヘア&メイク:遠藤芹菜